Topic 第9話 父の鉄道事故体験(00/02/12)

 私は幼少の頃から電車に興味がありました。保育園の頃、母の自転車の後ろに乗せてもらって、踏切で電車が通過するのを見送っていました。またそれを見たいがために30分近くも踏切で待っていたといいます(母の証言)。なぜそんなに電車に興味があったのか、それは父が南海電鉄に勤めていたからだと思います。小学校に入った頃には父は早くも定年退職しましたが、小学生時代は電車に乗ったとき、父に信号のしくみや電車の運転方法などいろいろ教えてもらったことを覚えています。

 そんな父ですが、なぜか電車の一番前に乗るのをやたらと嫌がっていました。結構最近になって聞いたのですが、それには大きな理由があったのです。

 昭和20年12月6日。この日は父にとって忘れられない、でも思い出したくない日になってしまいました。

 当時20才だった父は終戦後すぐ南海電鉄に入社。羽衣の教習所で研修を受けた帰り、南海高野線に乗っていて大事故に巻き込まれたのです。

 南海電車の下り列車2両編成が天見駅を出た後ブレーキがきかなくなり、カーブを猛スピードで通過し始めたのです。父は1両目の後部に乗っていたらしいのですが、満員の車内は不気味に静まり返ったといいます。皆、顔は土色で生きた心地ではなかったそうです。紀見トンネルを抜け出る時には時速90〜100kmに達しており、ついに紀見峠駅構内のポイントを壊し、退避線車止めを突き破って芋畑に転落したとのことです。父は幸いにもほとんど無傷だったらしいのですが、死者27人負傷者200人余りの大惨事となってしまいました。

 当時の電車は終戦間もないため車両が不足していたことに加え、ブレーキが空気制動一本だったのでそれがきかなくなると暴走するしかないという状況だったようです。

 これだけの恐怖を体験すれば、電車の一番前に乗るのを嫌がるのも無理はないと思いました。

 ところでこの事故に関して、当時の新聞ではブレーキ故障による事故と報じず、なぜか「ポイント故障」と報じていました。しかも、本当は芋畑に転落なのに「がけに衝突、谷底に転落」と書いてあったそうです。当時がいかに混乱した時代だったかが、はっきり見てとれると思います。

トップページへ戻る

(C)1999-2006 Train Topics